傷だらけ父さんのHappy Life Journey -難病をバイタリティに変える生き方-

30代半ばにして小中学生2人の子供の父親。遺伝性の難病(マルファン症候群)による大動脈解離や複数回の大手術で体は傷だらけ。そんな傷だらけ父さんが、闘病記と、経験談に基づく”難病であることをバイタリティ(活力、希望に向かって進む力)に変える生き方のススメ”を紹介します。

大動脈解離 スタンフォードA型 ①発症

 2003年12月3日、地方(鹿児島)で一人暮らしをしていた19歳の冬、それは何の前触れもなく急にやってきた。初めての大動脈解離だ。

 大学2年生になって勉強はほどほどに、バイトと、前回の投稿でも触れた大学のサークル(極真空手)に夢中になり、毎日本当に忙しくも充実した生活を送っていた。思い返せば、ちょうど発症する前日も、授業が終わった後に3日後に控えていた極真空手の大会に向けて大学のトレーニングルームで筋トレをして、その後、夜8時から深夜2時まではいつも通りアルバイト(大学前にあったちゃんぽんチェーン店)に精を出す随分忙しい一日を送っていた。

 発症当日は午前の授業を終えた後、昼ごはんを買って、彼女(後に奥さんになる)のお家で一緒に食べて午後の授業まで2人でまったりしている時だった。いきなり背中(左右肩甲骨の真ん中あたり)にドーンと強い痛みが走った。例えるならば、背中から槍でドンッと突かれたかのような痛みだ。「ウッ。」と声が出た後は、大きな声は出せないし、息も吸い辛い。直観的に ”これはやばいやつだ。動かない方がいい。” と悟った。そして彼女に、できる精一杯を振り絞って「昔、マルファン症候群って心臓が悪くなる病気があるって言われた。それかもしれない。」と伝えた。そのあとは、彼女が救急車を呼んでくれて、大学1年生の時に腸閉塞で一週間入院したことのある病院に緊急搬送してもらった。

 ちなみに発症して直後は、タクシーか救急車のどちらを呼ぶのがいいか迷ったが、救急車を呼んでよかった。あの不気味な強い痛みが続くなか、タクシーの後部座席に座り続け、病院の受付を待つことなんて今は考えられない。救急車を選択してよかった。ただ、救急車が来た後も、なかなか発車せず病院に連れて行ってくれないことへの焦りと不安は今でも覚えている。救急隊のおじさんは何度も「狭心症?」と聞いているが、私は狭心症という病気は聞いたことはなかったし、「マルファン症候群で心臓が悪いみたい。」としか伝えられなかった。この時「マルファン症候群なので、大動脈解離かもしれない。」と伝えることができていたら、搬送スピードや救急隊の対応はもっと違っただろう。

 救急車で緊急搬送してもらった病院でCTをとり、その検査結果を彼女と一緒に若いお兄さんドクターから聞いた。「心臓から出ている血液を運ぶ大きな血管が裂けている大動脈解離です。手術しないとダメだけれど、この病院ではその手術はできないので、いまから救急車で違う病院に行きます」と。そして同じ鹿児島市内の心臓血管外科のある病院に転院搬送された。

 転院搬送先では心エコーや採血などの検査と必要な点滴を付けたあとは、ICUで横になっていた。大きく体を動かすことはできないが、会話もできていたし、痛みも落ち着いていた。大動脈解離になったことは家族にも連絡して貰っており、その日のフライトで母が、次に日に父が愛知から鹿児島に駆けつけてくれた。ドクターからは「いま家族のひとも鹿児島にむかってもらっているから。いまはひとまず落ち着いているので手術は明日します。」と教えてもらい、簡単に入院・手術計画書や同意書の説明を受けてサインをした。

 その晩に、到着した母と同伴してくれていた彼女はドクターから手術の詳しい内容、後遺症の可能性など説明を受けていたが、私はどれだけ大変な手術で、リスクがあるかもその時はあまり知ることはなく、薄暗い夜のICUで「明日は手術か。この後どうなってしまうのだろう。」とボーっと考えウトウトしていた事を覚えている。

 そして発症から翌日の12月4日、9時間に及ぶ大手術を受けることになるのである。

補足

 

 ちなみに、この初めて経験した大動脈解離だが、前兆や発症する前に体の異変は何もなかった。むしろ上述したように発症した3日後には日本有数のガチンコ度を誇る極真空手の大会に出場する気だった(発症が大会中でなくて本当によかった。もし試合中だったら即死だったかも知れないし、ちょっとしたローカルニュースにはなっていたかもしれない。なにより試合相手には一生のトラウマにさせてかもしれない)。前回の投稿(→コチラ)でも述べたが、原因は運動というより、むしろ違うことろにあると考えている

 原因として考えられる事として、なにより発症する前月の11月が体(心臓・循環器)に良くなかった。11月の上旬には大学祭があり、その期間は、昼は模擬店を、夜は遅くまでテントで寒い中焼酎を飲み明かす日を過ごしていた。バイトも慣れてきて少しでも稼ごうと深夜シフトを始めたのもこの頃だ。また、貯めたお金で手に入れた念願のバイクに彼女を乗せて鹿児島県内の遠くまで凍えそうな寒い中、滝と紅葉狩りのツーリングに出かけていた。人生振り返ってもここまで寒さと疲労に体に無理を掛けた期間はなかったかもしれない。と反省している。

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